Akira MATSUDA

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博士課程で得られたもの・失ったもの

これは壁 Advent Calendar 2023の23日目の記事です。 この記事では2017年4月に博士課程に進学し、その後紆余曲折あり約6年半かけて2023年の11月に学位を取得するまでに私が感じたことをお伝えします。記憶がフレッシュなうちにひり出した、長くて読みづらいお気持ちポエムです。 当時から今まで私を支えてくださった全ての人に感謝いたします。 なお、この記事は私の主観と当時の記憶により執筆されているため、現状及び解釈によっては事実と異なる場合があることをご了承ください。

博士課程に進んだきっかけ

自分は学部生の時からコンピュータサイエンスを専攻しており、大学院でも同様の学問を専攻しました。 コンピュータサイエンスの中でもHuman-Computer Interaction(HCI)という、「人がコンピュータを効率的に使うための操作方法」や「人にとって使いやすいと感じるコンピュータの振る舞い」を探求する分野を学んでいました。 HCIの詳しい説明は差し控えますが、こちらの記事がわかりやすいので紹介しておきます。

当時、自分はソフトウェアエンジニアとして様々な企業でアルバイト・インターンをしており、ソフトウェアエンジニアの業務やその人生はある程度想像がついていました。 そのため「今このタイミングで企業に就職したらそのままエンジニアを続けそうだし、この先の人生の中で博士課程には進む機会は少ないだろうな」と感じており、進学するなら今がチャンスだと思い博士課程に進学しました。 当時、未熟だった私は博士課程に進学したことが非常に長く、厳しい旅になるとは思ってもいませんでした。

今ではDと数字の並びを見ると心がざわつくようになってしまった
今ではDと数字の並びを見ると心がざわつくようになってしまった

どんな研究生活だったのか

博士課程における研究生活の主な目的は博士号の学位を取得することです。 そのため、HCI分野の学生はプログラミングや電子工作をしてコンピュータシステムを実装したり、そのシステムの性能やユーザビリティを評価するために実験をしたりします。 その内容を論文としてまとめ、学会や論文誌に投稿し、査読の結果評価されれば採択、だめなら不採択で論文の加筆修正などして再度採択をめざします。 採択された論文は投稿した学会や論文誌を通じて世界に向けて出版されます。 私の研究分野では出版の際にACM Digital Libraryというサイトに掲載されることが多いです。

決められた時間の中で学位を取得するには、この論文を出版するための「実装→評価→執筆→査読」というサイクルをいかに早く回すかが重要です。 そのために、これまで学んだスキルだけでなく、必要なスキルを積極的に学習することが求められます。 たとえば、私の研究テーマではハードウェアの開発が必要であり、プログラミング以外にも電子工作や3Dモデリングを自主的に学びました。 また、HCIではシステムの数値的な性能評価だけでなく人が使ったときにどう感じるかを明らかにすることが重要で、実験計画を立てたり、研究室内外から人を集めシステムを使ってもらいアンケートやインタビューを実施するスキルやノウハウが必要でした。

自分はこのサイクルの中で、特に人を使った実験が難しく感じていました。 実験を成功させるには実験中にシステムが止まらないように作り込むことだけでなく、恣意的な回答にならないようにインタビューをするスキルや実験に参加してもらう人の予定調整など、コンピュータ以外のスキルが求められます。 これらのスキルを身につけるためには教科書を読めばいいというものではなく、自分で手を動かして実践し失敗して学ぶことが重要です。 さらに、自分の研究の本質を明らかにするためには、教科書の知識がそのまま活用できない場合も多々あります。 そのような場合は似た研究が行っている実験を参考にしたり、1から実験計画を妥当なものになるまでブラッシュアップする必要があります。 これは常に研究のトレンドを追うだけでなく、ずっと考え続けるだけの知的体力が必要で時間と忍耐力が求められる作業です。

愚直にフットワーク軽くシステムを作る姿勢を見せる私の指導教官
愚直にフットワーク軽くシステムを作る姿勢を見せる私の指導教官

長く厳しい旅

自分が所属していた研究室ではHCIを扱うにしても個別具体的なテーマに縛られず多種多様な研究が行われていました。 例えば以下のようなコンピュータを使っている点以外は共通点がほぼ無いテーマの研究が行われていました(どれもHCI分野の研究として妥当です)。

  • 音声認識技術を使い語学学習におけるシャドーイングの善し悪しを判定して学習に役立つフィードバックを行う
  • 空気泡を制御し離れた場所にいる高齢者に対して体に触れられた感覚を提示してリハビリを支援する
  • 画像処理技術や温度センサを使い調理中の食材の状態を可視化する
  • プールにちりばめた小さな粒子を画像処理技術で追跡しスイミング中の人の動きを計測する

そのため、所属するメンバーでもそれぞれ異なる領域を探求しており、ゼミや突発的な議論のたびに新たな発見や研究ネタが生まれ非常にエキサイティングな研究室でした。

このように、研究室のメンバー各々がバラバラのテーマに取り組んでいるため、人生や研究全般に関するメタな悩みは共有できても、具体的なテーマに関する悩みを共有することが難しかったように思います。 先輩にシステムの開発や実験計画を相談するにしてもテーマが違うので細かなノウハウを聞く機会は多くありませんでした。 そのため、研究に対する練度が足りておらず何をすればいいかわからず悩む時間が増えていきました。

また、似てるようで似てない、ちょっと似ている研究テーマの後輩がいたとしても、そもそもお互い勉強中なので深い知識を共有できないとか、各々の研究テーマがあるので助け合う余裕もあまりない、という状況が続きました。 これらの状況から「研究生活は孤独の戦いである」という感覚を強く感じて研究生活を過ごしていました。 当時はその感覚故に悩み苦しんでいたばかりでしたが、今思えば猛烈に考えて愚直に実行する力をつけるには良い環境だったのかなとは思います。 このような悩みは環境的要因もあったと思いますが、自分の性格的な要因もあったと思います。 例えば、研究室外にコミュニティを探しに行けば良かったかもしれません。

同期の博士学生が世界で戦っている中で研究が上手くいかず孤独を感じている時のイメージ
同期の博士学生が世界で戦っている中で研究が上手くいかず孤独を感じている時のイメージ

博士課程で6.5年、修士課程を含めると8.5年という時間の中で、たくさんの出来事がありました。 自分の所属する専攻では博士号を取得するためには最低3本の論文を出版する必要がありました。 修士2年の段階ですでに1本論文が出版されていた自分は「おっ、割といい調子じゃね?」と勘違いしてメンタル的に高ぶっていました。 しかし、しばらくしてメンタルが崩れます。 その原因の1つはすでに述べた「研究生活は孤独との戦いだ」という感覚でした。 自身が所属していた研究室では研究テーマの細かい悩みを共有しづらいとか、自身の練度が足りない故に自分が取り組みたい明確な問いを言い表せない、それ故に研究トレンドをうまく追えないことが引き起こした感覚だったと思います。

また、3本の論文がそろった後も悩みはつきませんでした。 それまでがむしゃらに研究を進めてきたため、3本の論文のテーマに一貫性が薄く、1本の博論としてまとめることに苦労しました。 ああでもないこうでもないと博論全体のストーリーを考えているうちにコロナが始まり、家にこもる時間が増えた結果精神的に追いやられ寝られなくなりました。

休学中は復学した際にスムーズに博士号の審査が進められるように博論の執筆を続けました。 できるだけ波風立てず、焦らず心が乱れないよう慎重に慎重を重ねて審査の準備をすすめていきました。 博士号は通常は3年、長くて5年かけて取得することが期待される中、そんなこんなあって学位取得までにやたらと時間がかかりました。

長い旅の中で激しく動く精神状況 長い旅の中で激しく動く精神状況

何が自分を支えたのか?

このような長く厳しい旅の中で意識していたことは「ここで辞めたら・投げ出したらダサい」という気持ちでした。 この「ダサい」という主観は自分の中の価値観なので、「ダサいな」と思ったらそれは誰にも否定されることはできないものです。 自分がなりたい姿を追い求めるより、なりたくない姿を意識してメンタルを支えていたように思います。

また、周囲の知人友人との交流も自分を支えるものでした。 例えば食事をしながら相談や愚痴を言い合うことでガス抜きになりました。 ただ、このような交流を通して他人と自分を比較してしまい「あー、だめだなぁ自分」という気持ちになることもあったので、手放しにおすすめできる策とはいえません。

さらに、自分の性格を分析してメンタル不調のリスクを予想し心を鍛えることも役に立ったと思います。 例えば、メンタルが落ち込むと自分はどうなってしまうのか、そうならないにはどのように振る舞うべきかを分析しました。 そして「何に手をつければいいかわからないし、誰に相談すればいいかわからない、時間だけ過ぎていく…」といった辛い時期は「時間がいつか解決してくれるから耐え忍べ」と思ってやり過ごすとか、「この先、学位取得まで5回くらいはマジで死にたくなるイベントあるな」と思って気持ちを構えることを意識しました。 めちゃくちゃネガティブな発想ですが、自分のネガティブな面を受け入れて「生きているだけ偉いし、逃げ出さないことが大切」みたいな気持ちでいることを考えていました。

得られたもの

このような長い旅を経て得られたものや経験したことは何にも代えがたいものでした。 まずは、博士号が得られました。 持っているのといないのとでは、その後の人生に大きく影響を与えます。 例えば、博士号を取得するに当たって、粘り強くやり続ける・筋を通す力・論理的に妥当な思考・課題設定や解決に対する柔軟な姿勢やスキルが身につきます。 修士卒業の後にエンジニアとして企業に就職していたら、博士課程のように形式だってこのようなことを学べた気はしませんし、業務を通じて身についたかわかりません。 また、博士号をものでもっているとプロの研究者として認められたことになります。 明確な専門性を持った人材であることの証明になります(自分の場合は広義ではユーザインタフェース・インタラクション、狭義では遠隔コミュニケーション・非言語コミュニケーション)。 法律で定められる最高位の学位で、博論は国会図書館に収蔵されます。敬称もDr.に変わります。名誉なことですね。 やり遂げて良かったと思います。

他にもいろいろなスキルの獲得や経験を詰めました。 博士課程では電子工作やプログラミング、実験計画から組織運営まで多岐にわたるスキルを同時に学ぶことができました。 このような自分が興味あることを主体的に全て学べるのは博士課程というモラトリアムだからできることだと思います。

さらに、他人に自分が考える手法やその価値を伝える力を鍛えられました。 スライドや図の作成や動画編集、文章構成、妥当で鋭い主張の善し悪しについて判断する訓練になりました。 どのような見せ方なら自分の研究の主張や良さが簡潔に伝わるかな?と常に意識する癖が身につきました。

そして、学会などを通して様々な人々とのつながりを得られました。 例えば、先輩研究者や異なるバックグラウンドを持つ研究者たちとの交流は、個々の人生観や研究のアプローチに新しい視点をもたらしました。 ある学会では、特に興味深いプレゼンテーションや文章に触れ、その人の研究だけでなく、どのようにして研究と生活を両立させているのかを考えるきっかけとなりました(特にこのブログが好きです。) これらの交流は私にとってだけでなく、相手方とも共通の興味を共有する場となりました。 生存戦略やキャリアの構築について相互に話し合い、自分の研究テーマと関連する部分を見つけ出すことで、研究活動に新たな視座を加えることができました。 さらに、これらの研究関連の交流だけでなく、プライベートとしての食事や遊びに行く機会も多く生まれました。 共通の興味をもつ仲間との交流は、研究室外でのつながりを強化し、楽しい時間を共有できることができました。

失ったもの

一方で、博士課程で失ったものもいくつかあります。 1つは認知のゆがみによる人間性です。 査読や学会発表の経験を通して、全ての事柄に対して常にそれ本当か?という見方をするようになりました。 このクリティカルな思考力はアカデミアでの議論において重要であり、各自が主義主張を持ち合わせて議論を深める文化の一環です。 しかし、このような考え方は生きていく上で不都合な場合があります。 例えば、企業や家庭では必ずしも議論が主義主張に基づくものではなく、相手の意見を受け入れることが求められる場面も多々あります。 時には、「そういうもんなんだね〜」とか「(筋が通ってない気がするけど)あなたはそう思うんだね」といった受け止めるスタンスが生活全体を円滑に進めるのに役立つこともあります。

また健康と生活リズムを失いました。 博士課程では、出勤やコアタイムでの労働を強制されない柔軟な環境がありますが、その一方で生活リズムを保つことが難しくなりました。 例えば、11時に起きて26時に寝るといった不規則な生活スタイルや、長時間の座りっぱなしといった健康に悪影響を及ぼす習慣が身についてしまいました。 このような生活スタイルが自分に合っているかのような錯覚に陥り、「生きてるしおk」という気持ちになる一方で、他の人との交流が減り、社会との接点が減少することがありました。

結局どうだった?

自分は博士課程に進学してから、楽しい瞬間よりも辛い瞬間が圧倒的に多かったです。 前述の通り、「ここで投げ出したらダサい」という気持ちでしがみついた結果、何とか学位を取得できました。 もちろん、これは完全に生存者バイアスがかかっているかもしれませんが、平坦な人生よりも価値があったのかもしれません。 在学中は、陰鬱な感情が頻繁に襲ってくる時期もありました。 しかし、これらの厳しい気持ちになる時間が、精神を成熟させる大きな糧となりました。 感じた苦しみや挑戦が、自分をより強く、成長させる一助となったと思います。

“an act of love”、まだここまで達観できてはいない
“an act of love”、まだここまで達観できてはいない

HCIは同じコンピュータサイエンスといえどアルゴリズム、画像処理、機械学習といった分野などとは異なり、コンピュータを介して多岐にわたる課題に取り組みやすい分野です。 しかし、HCIに取り組むことで、何に詳しくなり、どのようなプロフェッショナルになれたかを具体的に説明することが難しいことがあります。 なぜなら、HCIは幅広い分野との連携が求められ、単一のスキルや専門性だけではなく、学際的な知見が必要な場面があるためです。

一方で、HCIを学ぶことでコンピュータにとらわれない幅広い知識を得られます。 このことは、単なるコンピュータサイエンスの学習に留まらず、他の分野との連携や協力が可能になります。 これにより、単一の分野に縛られない視点を持ち、異なる分野のプロフェッショナル同士の架け橋になれるはずです。

先人のHCIに対する解釈

博士課程を通して得られたもの、失ったものを鑑みると次の方策が考えられると思います。

  • 生き残ったら勝ち・闇落ちしても回復して生存をせよ
    • 1度きりの人生の中で少数派が進む生き方に賭け、立ち続けることで得られるものがあるという意識
    • 人生を賭けて、考え抜き、行動することが重要
  • 睡眠・食事は大切、でも環境はもっと大切
    • メンヘラになって体調が優れない?ただ休むのでは無く能動的に環境を変えよ
    • 自分は大学から少し離れた場所に引っ越して生活環境を変えた
    • 見慣れた景色から新しい景色に変わったことで刺激になり生活する力が湧いた
  • リスクを想定・外のコミュニティに属して冗長化せよ
    • 1つの世界に閉じこもると、事故ったときにどん詰まり
    • 逃げる勇気、帰ってくる勇気が大切
    • 逃げっぱなしだと後の人生ずっと引きずるかも、落とし前はつけたい
  • 博士号取得は高尚な戦いではなく通過点・取ったもん勝ち
    • もっとレベルの高い研究をしたい、新しい分野を開拓したい、それは博士号をとってからでもできる
    • 大風呂敷広げないでサイクルを回し練度を高めよう
    • トップカンファレンスに通らなくてもいい、学位を授与されるための条件を満たせばいい
    • See also 博士論文執筆の際にお願いしたいこと

偉そうなことを言っていますが結局自分はオーバードクターであって、この駄文を読んでも成功するための参考にはならない気がします。 でも現状を悲観しつつも愚直に物事にしがみつづけることは若いうちにやっておくと得られるものが多いように思います。 自分の場合は、博士号を取得するまで得られた体験や支えてくれた人、属していたコミュニティが人生において大切なものになりました。

ということで皆さんHappy卒論/修論/博論ライフを。

指導教官が通っていた幼稚園の標語。自分は博士号をとって考える子にはなれたかな。 指導教官が通っていた幼稚園の標語。自分は博士号をとって考える子にはなれたかな。